ページ

引っ越しました。新しいサイトはこちら

20150325

祈り

祈りとは行為ではありません。

神社や、寺院で手を合わせて祈りの真似ごとはできますが、本当の祈りをあなたが「行う」ことはできません。
自分よりさらなる高みにある何かに出会ったとき、たとえば、目の前に立っているその人の中に何か大いなる存在を見つけたとき、畏怖と共に祈りが自然と湧き上がってきます。
その存在のあまりの深遠さに出会ったとき、ひとりでに祈りが始まるのです。

神様にあれこれ願い事をするとき、幸せになりますように、良縁がありますように、合格しますように、健康でいられますように・・・それはひとりごとの領域を出ていません。
神様との対話ですらないのです。
神様という偉い人を想像して、その人が欲しいものを与えてくれると夢見ているのです。
それが巷で行われている、いわゆるお祈り、祈願という代物です。
もちろんそんな幻想が叶うはずはありません。

神社や寺院は、「わたしより崇高な存在がこの宇宙に存在している」ということに初めて圧倒される場所です。
あなたが「世界中で一番」ではないのです。
もっと純真なもの。もっと偉大なるもの。もっと力強いもの。
あなたの自我をもっとずっと超えたものに出会う瞬間。

そこで味わったことを日常に持ち帰るのです。
そして両親や恋人や友人や犬や猫や植物にさえも試してみるのです。
小さな鉢に植えたバラが自分より崇高だと感じた瞬間、ひとりでに湧き上がってくる清廉な謙虚さ、それが祈りです。

至高なる存在に出会ったとき、思わずひざまずいてしまうのは自然なことです。
けれども謙虚さを表したからといって、実際にあなたが崇高さに触れているとは限りません。
神社や寺院に出向いたならば、この全知全能の荘厳な存在に圧倒されて、思わずひれ伏したくなるまで待たなければなりません。
礼拝の仕方というマニュアル通りにお辞儀をしても、それは形だけに留まります。
あなたがへりくだったからといって、何かが偉くなるわけではないのです。
何でもかんでもペコペコすることで失ってしまったことが日本には多くあります。
それが偽物を作ってしまったのです。

なぜ世界は地に落ちたのか。
まずは子供が両親を尊敬しなくなったことです。
すぐにアラを探し出して、権威を失墜させてしまいます。
こうやってわたしたちは祈りの機会を失いました。
彼らが取るに足らないものなら、何に対してひざまずけばいいというのでしょう。

そこでインドで生み出されたのが「グル」という存在です。
「グル」のそばに行くとその高尚さに思わず圧倒されて、その足に触れたくなるのです。
そんなことはしたくないといくら抗っても、その存在と彼の創りだすその磁場があまりにも圧倒的なので、あなたの自我はへなへなとひれ伏してしまいます。
この「グル」という現象は主にアジアで興ってきました。
そうして寺院が造られたのです。

あなたは感じることができるだけです。
誰かに教わることはできません。
祈りはあなたの要求とは何の関わりもありません。
「すてきな恋人が現れますように」と手を合わすとき、「わたしには恋人が必要なのになんで寄越してくれないのよ、このおたんこなす!」とあなたは言っているのです。
大いなる存在よりあなたの方が何が必要なのかわかっていると言いたげなのです。

あなたは必要以上に十分な恩寵を与えられて今、ここに存在しています。
そのことに気づいたとき、ひざまずき、手を合わせ、本当の祈りが起こるでしょう。