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20150503

愛が公にされることは不可能です。それはいつも二つの個人の間で起こる親密なできごとです。それを公にしようとするならば、真実は消えてしまい、それはもはや愛ではなく、何か別のものに成り下がってしまいます。

愛には4つの形があります。その違いを知らなければ、愛はひたすら苦悩になります。英語には愛を表現する言葉がひとつしかありませんが、インドには4つの異なった表し方があり、それぞれの段階にそれなりの喜びと苦しみがあります。

第一段階の愛はpyaar(ピアール)と呼ばれます。この愛は肉体に基づいており、ホルモンによって支配されています。ふたつの肉体の出会いです。肉体は時間の概念に縛られているので、そこから抜け出すことはできず、時間が過ぎることを恐れ、出会いの時間が短いと嘆きます。肉体は固形物なので、ひとつに混じり合うことはできません。短時間出会うことはできますが、長時間の別離を強いられます。肉体に基づいた愛では、少し喜びを味わうことができますが、そのほとんどを占めているのは苦悩です。

しかし、この苦悩がより深い愛への挑戦を手助けしてくれるのです。これこそが自然の恩恵といえるでしょう。苦悩はやっかいなものではなく、わたしたちを手助けしてくれるツールなのです。動物は苦悩というものを知らないので、次の段階の愛に行くことができないのです。

ひとはこの苦悩のおかげで、愛の第二段階へジャンプすることができます。それはprem(プレム)と呼ばれます。プレムの領域になると、愛はより心理的、感情的になります。愛とはこうあるべき、という思い込みや期待が、映画や歌や詩に表現されるのはこの段階です。

いつも恋人を心に感じていたい、いつも気持ちはひとつでいたい。わたしたちは、ネットやスマホを使って絶え間なくつながろうとします。しかし、マインドというものは想像と幻想に支配されていて、それもすぐにネガティブな方へ傾くようにできているので、そこで心に傷を負い、その痛みは苦悩を引き起こします。

また、倦怠という障害も心に入り込んできます。マインドはいつも何か新しいことを求めているので、今ある愛は古臭くなり飽きてしまいます。傷つかなければ、飽きる。どちらにしても、苦悩は始まり、セラピストや心理カウンセラーの出番がやってきます。

十分に苦しみを味わったうちの幾人かは、第三段階の愛へジャンプすることに成功します。その愛はprett(プリット)と呼ばれます。英語のpretty の語源です。愛がプリットの段階にはいると、それはハートのスペースにやってきます。すると恋人にはどんな落ち度も見つけることはできなくなります。相手はただひたすら美しく、その美に魅了されるばかりです。それは母親の目に似ているともいえます。どの母親も自分の子供に醜さを感じません。母親の目にはただその美しさしか見えません。

愛がハートのスペースに来るとわたしたちは少し愛にくつろぎを感じはじめ、スペースが開くことに安らぎを感じます。ここから生まれる美しい詩やアートは世界中に愛のギフトを送ります。

しかしこの段階にしばらく留まっていると、恋人とひとつになりたいという強い願望が抑えきれなくなります。肉体も心もひとつになれません。ハートがひとつになることを強く求めれば、第四段階へ、プリット からvakti(ヴァクティ)へのジャンプが起こります。ヴァクティではただ恋人とひとつになること以外には何の望みもありません。その美を見ることさえ求めないのです。ほんの少しのかい離すらあまりにも辛すぎます。そしてついにひとつになることが起これば、恋人たちは消えてしまい、ただ愛だけが残ります。エゴとしての存在が消え、純粋な愛のエネルギーだけが残るのです。愛する人も愛される人も、もはや存在しなくなるのです。

全ての愛は、ここにたどり着く運命にあります。
すべての川が大海にたどり着く運命にあるように。

ただ残念なことに、途中で迷子になってしまい、愛を成就させられる者はあまり多くはありません。

愛のエネルギーだけが残ったとき、それは愛のサマディーと呼ばれます。サマディーはこのような方法で得ることもできるのです。ラーマクリシュナ、ナナックやミーラはこの方法でサマディーに到達したのです。これはあらゆる愛の最終的な運命なのです。

第三段階のプリットから愛は祈りの質を帯びてきます。第四段階のヴァクティにおいて、この祈りは最頂に達します。そしてひとつになることが起これば、この祈りも消えてしまいます。誰から誰への祈りがあるというのでしょう。祈りをささげる人はもはやいません。

自分の愛がどの段階にあるのか理解することが大切です。苦しみを感じているのなら、そこから次のステージへ進むチャンスです。愛のステージは、ひとつひとつ離れているのではなく、それぞれのステージはらせん階段のように繋がっています。時には、上に登ったり下に降りたり、一日のうちにも何度も階段を行き来しています。どこにいるのか気づかずぐるぐるしていると、逃してしまいます。ただし、それらは完全に切り離されてはいないので、ピアールの中にもプレムやプリット、ヴァクティが内包されています。それをよく理解すること、それを黙想してみることが愛の道です。

「一如=ひとつになること」はいつもわたしたちの内側で起こります。決して外側のできごとではないのです。内側で起こればそれが外側にも現れます。多くの人々はまず外側での合一を実行しようとしますが、所詮それは無理な話なのです。合一は内側でのみ起こる事象です。もし、あなたが「一如」の状態にある人の領域に入ったならば、そこで不思議な一体感の共有体験をするでしょう。「ひとつあること」の神秘を体感することでしょう。

愛の第二段階プレムにおいて、あなたは選択しなければなりません。愛から逃げ出すか、マインドから逃げ出すか。マインドから逃げ出せば、第三段階の愛プリットに入ります。ほとんどの人々は逃げ出したくても何から逃げ出せばいいのかわからず、混乱しています。マインドは決して自分から逃げ出せとはいいません。それはマインドにとっての自殺です。だから誰か他の人が、愛から逃避するのではなく、マインドから逃げ出すように諭してあげなければならないのです。

わたしたちの多くはここで行き詰っています。マインドは決して愛を理解しません。愛は市場で売り買いできるものではありません。製造したり、陳列したり、所有したりできるものではないのです。愛とは、生をより深くより豊かにする、神秘に満ちたエネルギーです。そしてマインドは決してそれらの事象を理解しません。

20150423

皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

わたしは今、スーツケースに荷物を詰め込んでいる最中です。

おみやげのスパイスや、豆や、茶葉や、オイルやお菓子でスーツケースは一杯です。

けれども日本に持っていくことができる一番大切なものは、スーツケースには収まりません。

インドからわたしが日本の皆さんに持っていける一番のおみやげ。

それは、瞑想です。

今回もあちこちで様々なワークショップを予定しています。

皆さんにお会いできるのを心から楽しみにしています。

Love

Uttam

20150325

祈り

祈りとは行為ではありません。

神社や、寺院で手を合わせて祈りの真似ごとはできますが、本当の祈りをあなたが「行う」ことはできません。
自分よりさらなる高みにある何かに出会ったとき、たとえば、目の前に立っているその人の中に何か大いなる存在を見つけたとき、畏怖と共に祈りが自然と湧き上がってきます。
その存在のあまりの深遠さに出会ったとき、ひとりでに祈りが始まるのです。

神様にあれこれ願い事をするとき、幸せになりますように、良縁がありますように、合格しますように、健康でいられますように・・・それはひとりごとの領域を出ていません。
神様との対話ですらないのです。
神様という偉い人を想像して、その人が欲しいものを与えてくれると夢見ているのです。
それが巷で行われている、いわゆるお祈り、祈願という代物です。
もちろんそんな幻想が叶うはずはありません。

神社や寺院は、「わたしより崇高な存在がこの宇宙に存在している」ということに初めて圧倒される場所です。
あなたが「世界中で一番」ではないのです。
もっと純真なもの。もっと偉大なるもの。もっと力強いもの。
あなたの自我をもっとずっと超えたものに出会う瞬間。

そこで味わったことを日常に持ち帰るのです。
そして両親や恋人や友人や犬や猫や植物にさえも試してみるのです。
小さな鉢に植えたバラが自分より崇高だと感じた瞬間、ひとりでに湧き上がってくる清廉な謙虚さ、それが祈りです。

至高なる存在に出会ったとき、思わずひざまずいてしまうのは自然なことです。
けれども謙虚さを表したからといって、実際にあなたが崇高さに触れているとは限りません。
神社や寺院に出向いたならば、この全知全能の荘厳な存在に圧倒されて、思わずひれ伏したくなるまで待たなければなりません。
礼拝の仕方というマニュアル通りにお辞儀をしても、それは形だけに留まります。
あなたがへりくだったからといって、何かが偉くなるわけではないのです。
何でもかんでもペコペコすることで失ってしまったことが日本には多くあります。
それが偽物を作ってしまったのです。

なぜ世界は地に落ちたのか。
まずは子供が両親を尊敬しなくなったことです。
すぐにアラを探し出して、権威を失墜させてしまいます。
こうやってわたしたちは祈りの機会を失いました。
彼らが取るに足らないものなら、何に対してひざまずけばいいというのでしょう。

そこでインドで生み出されたのが「グル」という存在です。
「グル」のそばに行くとその高尚さに思わず圧倒されて、その足に触れたくなるのです。
そんなことはしたくないといくら抗っても、その存在と彼の創りだすその磁場があまりにも圧倒的なので、あなたの自我はへなへなとひれ伏してしまいます。
この「グル」という現象は主にアジアで興ってきました。
そうして寺院が造られたのです。

あなたは感じることができるだけです。
誰かに教わることはできません。
祈りはあなたの要求とは何の関わりもありません。
「すてきな恋人が現れますように」と手を合わすとき、「わたしには恋人が必要なのになんで寄越してくれないのよ、このおたんこなす!」とあなたは言っているのです。
大いなる存在よりあなたの方が何が必要なのかわかっていると言いたげなのです。

あなたは必要以上に十分な恩寵を与えられて今、ここに存在しています。
そのことに気づいたとき、ひざまずき、手を合わせ、本当の祈りが起こるでしょう。


20150119

経験すること、理解すること。

 さあ、インドへ行こう。素敵な経験があなたを待っています。今すぐ飛行機を予約して。一月はちょうどベストシーズン。プネー、ゴア、リシケシ。あちこち旅するには持ってこい。
異文化に出会い、非日常の冒険に出かけ、瞑想を体験したり、ワクワクする恋愛や、めくるめく官能や、神秘を体験したいあなたにはぴったりの場所、それがインドです。

そしてあなたは何か新しい経験を求めてインドにやって来ます。
が、待ち望んでいたような経験は起こらず、期待外れなことばかり起こります。

だまされた!
宣伝文句は嘘だったとあなたは怒りを感じ始めます。

母国の文化を十分経験したあなたは一体どうなりましたか?
浮気を経験してみる?あなたはすでに自分のパートナーを十分経験しているじゃありませんか。
何も起こらないし、何も変わらない。
経験はあなたに何か与えてくれましたか?

人間が動物と違うところは「自我(エゴ)」を持っているという点です。
動物が悲しいとき、彼らは自分が悲しいとは感じません。犬は「ボクは悲しい」と感じるのではなく、犬そのものが悲しみになります。その犬に悲しいと言う「わたし」は存在しません。
犬が空腹なとき、「腹ペコ」と「わたし」は存在しません。犬そのものが空腹になります。

自我(エゴ)」が生物に現れたとき、動物界からの跳躍が起こり、人間になるのです。
そしてこの「自我(エゴ)」とは経験したいという欲望そのものです。これが生を地獄にしてしまいます。
あの女性、この男性、どこそこの食べ物、あの場所この場所、何でも経験してみたいという欲望が生まれると、あなたは途端に落ち着きをなくします。そしてあちこち場所を変え、手を品を替え、何か行動しなければならなくなるのです。

では、その元凶である「自我(エゴ)」からどうやって自由になれるというのでしょう?
それは「理解すること」です。
生を経験するのか、生を理解するのか。道はこのふたつしかありません。

経験から得られるものはいつも両極端です。損か得か、苦か楽か、敵か味方か。
あなたが何かを経験するときにはいつもどこか不快感を覚えているはずです。結果が常に正反対だからです。
経験を求める人はくつろぐことができません。くつろげるはずがないのです。これは苦いのか甘いのか。かれらはいつも働きバチのように動き回っています。

そう、結果はいい経験と悪い経験に分けられるだけです。
経験からわたしたちが学ぶことはありますが、理解することは何もありません。
たくさんの経験を重ねれば何かを得られるはずだというのは幻想です。それはただプラスかマイナスに分けられるだけ、わたしたちを混乱させるだけです。

同じ相手が喜びを与えてくれるかと思うと、次の瞬間には苦しみを与えます。
さて、このまま関係を続けるか、それとも別れるか。万人が悩む大問題です。

さて、あなたはその相手を理解しようとしたことがありません。相手を理解すれば関係をどうこうする必要はなくなります。
それはとてもシンプルになるでしょう。
あなたが理解に至ればすべてはとても明解になります。
相手が共に分かち合ってくれるとき、なぜそうなのか。相手が背を向けるとき、なぜそうなのか。
理解すれば、問題はなくなります。どちらの場合も不平不満はなくなるでしょう。
どうしてそばにいて自分にいい経験をさせてくれないのか、どうしていやな経験をしなければならないのかと怒ったり不満を言ったりするのは「自我(エゴ)」です。その「自我(エゴ)」にはいくら考えても「理解すること」はできないのです。

それでは、その理解は瞑想によってのみ起こるのでしょうか?
そう、瞑想を通じて、人生を理解したいと決心したとき、問題を理解して解決を求めないと決心したときにのみ、本当の理解が起こります。
経験することから理解することへと転換するのだと自分自身に宣言するとき。
それは少し方向を変えるだけのように見えますが、あなたの全人生が大転換するほどの大きな変化なのです。あなたはずっと穏やかになるでしょう。

生を理解しようとする人がサニヤシンなのです。それが真のサニヤシンです。
経験を求めて外側を探すことから、理解をするために内側を探究する。
あなたの行動は自ずと変化します。あなたの意識は大きく変わります。
いつもいい悪い、敵だ味方だとすべてを分けていたあなたが、ざわざわせず、中心の定まった存在になるのです。あなたが選別をしなくなったとき、あなたは宇宙の法則を理解するのです。

経験と理解が出会うとき、叡智が訪れます。
理解することなしに経験だけをいくら重ねても決して叡智はやってきません。
反対に経験することなく部屋にこもって理解だけしても、あなたはただの知識人になるだけで、叡智はやってきません。

わたしは生を経験したいのではなく、生を理解したい。
人生の問題を解決するのではなく、問題を理解したい。
周りで起きていることを判断することなく、ただ理解する、そう決心すること・・・・・すると、あなたの人生は、今までとは違った側面に向かって開花していくでしょう。